「青春」の非実在性について

先日、夕暮れ時に高校生カップルが並んで一つのイヤホンを二人で使いながら下校してる後ろを歩き、「青春」だなあとしみじみと思った。だが改めて考えて見ると青春とはなんなのだろうか。彼らは自分達を「青春真っ只中だぜ!!」と思っているだろうか。おそらく彼らは自分達が青春を謳歌しているとは思っていないだろうし、僕も夕暮れに後ろからカップルを観測しなかったらあんなに「青春だなあ」とは思わなかっただろう。

ということで、今回は青春とはなんぞや、絶賛青春謳歌中だと自他ともに認めてるであろう人って存在するんかということについて考えてみようと思います。そもそも青春とは何かを引くと大体は「五行思想からくる青春という語は、青から未熟なニュアンスをもつため人生の春である青年期にぴったりだということでそれに当てはめたもの」という説明がなされている。これはなるほどという間違えのない説明だが、(精神的に)未熟な青年という意味だけではネガティブな意味合いになるので、さらに未熟な青年だからこそ出来る〇〇という何らかのニュアンスがこもっているのだろう。

ここでググって見つけた非常によい詩を一つ紹介しよう。サミュエル・ウルマンの「青春」(原題:「youth」)という詩の一節だ。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

サミュエル・ウルマン 「青春」

全文も短いしとても示唆的なのでぜひともググって読んでみてください。原題が「youth」なので若干ニュアンスが異なるかもしれないが、先ほどの〇〇はこのメンタリティの放つ輝きということで間違いはないだろう。自分の未来も社会もわからずひたすら自分の目の前のことに関する理想へと邁進する若者の放つ一回性のアウラとか一瞬で過ぎ去り帰っては来ない青年期の儚さとかいったものを見てしみじみと思うのであろう。そしておっさん達が「いやあ青春だねえ、好きなことに没頭出来るのは今だけだから精いっぱい楽しみなさい。」などと声をかけるのである。だが、果たして彼らに青春は存在しているのだろうか。彼らは青春を自覚した上で青春を謳歌しようと努めるのだろうか。

今までの話をまとめると、青春とは社会的に認められてはいるが「レールの上の行動」ではなく没頭するにはリスクが高いであろう行動に生活と思考のすべてを注ぐ(という意味で精神的に青いとみなされがちな)10代後半から20代前半の青年だと考えられる。いや、その青年性の発露に対する憧憬という構造まで含んだ方が適切ではないかと私は考える。

各人が自身の果たせなかった理想を青年達に投影し、彼らをその理想を具現化しその現実存在を担保してくれる装置としてみなしているのではないか。そのため、その青年達の生活や思考のうち理想の存在という物語に不要な要素は排除されて認識されるという構造をもつ。見えない部分を美しく補完するというわけだ。だから私は例のカップルを正面から見ていたら、自分の理想の物語にそれるような情報が入ってくる可能性が高いのでそこまで青春みを感じなかっただろうと推測するのである。こう考えると要するに青春とはおっさん達が自分の青年期に達せなかった郷愁的で懐古的な理想を青年達に映してしみじみと思ってるだけであり、「舞台裏」が隠されたアニメやドラマ、そして妄想にしかなかなか存在しえないものだと思う。

何か理想に向かって生活と思考の全てを注ぎ邁進する稀少な青年達には万人が認める青春性が備わってはいても、自身に対して青春を感じるという客観視の構造は入りえないと思うのだ。彼らが自分自身に対して青春を感じるようになるのは、自分が自分の青年期にとっての部外者となる頃、すなわち自分の青年期を思い出として認知するようになる頃であろう。その頃になれば思い出としての青年期は郷愁と懐古に色付けされ余計な要素は削ぎ落とされた立派な青春になっていることであろう。

こういう風に考えて見ると青春というのは「若い」メンタリティに表象される現実には存在しえないような美しい理想を外部の若い青年に仮託しているものとして考えられるようのではないかということです。

今回考えたメインのことはこれで全部ですが、ちょっとそれて思ったことが2つあるので書き留めて終わりにしようと思います。
一つ目は、社会が発展し、お受験→サラリーマンのような「レールの上の行動」が確固たるものになりそこからそれづらい環境になると青春像に合致するような行動がどんどん取れなくなるだろうということです。自身の青春を感じることは先ほどの理由でできないと思いますが、最大公約数的な青春像は社会に共有されているので青春とはかけ離れた状態は自覚出来ると思います。そして青年の多くがその非青春感を感じているのではないかと。まあ、僕がそうなんですが。そうした僕みたいな人達にとって現実のうち「理想な物語」にとって余計な要素は完璧に削ぎ落とされた理想的な青春像を提示してくれるアニメ等の作品に没頭するのはとても優秀なカタルシスになっています。たまらなく気持ちいいですね。しかしこのように現実の都合の悪い部分を削ぎ落とした美しい理想に浸りきってしまうのは一種の現実逃避ではないかという危惧もあります。
二つ目は、最近SNS等で青春アピールをしている人が散見されますが彼らはどういう環境と精神状態にいるのだろうかということです。おそらく上記の議論の反例という訳ではないと思います。また今度彼らはどういう環境にいてどういうモチベーションのもとああいう行動をとっているのか考えて見たいと思います。

継続は力なり


お久しぶりです、数ヶ月ぶりの投稿ですね。週一で投稿したいと言っておきながら恥ずかしい限りですがふと思い出したので近状報告を。

最近新しい趣味というか習慣ができました。英単語をひたすら覚えまくることです笑1日、100〜200語を覚えようとするっていうのを今のところ一ヶ月弱続けてます。受験時代は暗記が嫌すぎて英単語も蔑ろにしていたんですが、義務感が無いと意外と続くものですね。

英単語丸暗記の習慣をつけて気づいたことが幾つかあります。
まず、やはり暗記は覚えようとしないこと、もう少し言うと忘れてしまうことに対して罪悪感を感じないことが大事だなと思いました。エビングハウス忘却曲線的なノリで繰り返し覚えよう(3秒後まで覚えてればOKくらいの基準)とすれば、段々と短期記憶から中期記憶に移ってきて、5周もすれば大体どの単語も長期記憶に移行してくれるように思います。不思議なもので覚えやすい単語と覚えにくい単語があるので覚えてない単語にチェックをつけて置いてそれだけ繰り返すと結構効率的になると思います。疎遠だった単語が段々仲良くなってくれる感じの暗記の意外な楽しさに気づきました笑
次に、意外と暗記は文脈を作ってくれるということです。英単語の丸暗記をしてると意外と同義語や反意語が頭にポンと浮かんで来るようになりました。あと、英→日しかやってないんですが、日→英もポンと浮かんできたりとか。文脈を理解するとそれぞれの事象は覚え安いですが、逆もまた然りで大量の丸暗記をしておくとそれがマイルストーンとなって文脈の理解に資するようです。僕が暗記より文脈重視派なのは変わりませんが、丸暗記も捨てたもんじゃないですね笑

人生を豊かにする秘訣の一つは様々な知識や思考体系を吟味し骨肉化することだと思っているのですが、今回発見した丸暗記の効用のうち後者はそれに大きな道を開かせてくれたように思います。何らかの分野に精通してそこの思考体系を骨肉化したい時、「取り敢えずその分野に関する単語帳的な書籍を探して丸暗記する、そしてその後にその文脈を繋ぐ書籍へと移る」この流れが一つの王道となり得るのではないかと。

取り敢えずTOEFL必修英単語2500の丸暗記がそろそろ終わるのでこのまま百人一首や歴史の受験参考書の丸暗記に移って丸暗記を本格的な習慣にしていこうと思います。
今までの原動力は好きこそ物の上手なれだけでしたが継続は力なりも僕のエンジンにできるようにしていきたいものです。

秋の夕暮れ

ここ数日は過ごしやすい日が続いていますが三温四寒とでもいいましょうか、すっかり冬の空気すら予感するような秋の景色になってきました。

 

やはり「秋は夕暮れ」ですよね。今日も地平線に近い西日が空をあかく染めている空をながめ、どこかしみじみとした寂しさを抱きながら一人帰っておりました。(本当は寂しかったので友人と晩御飯を食べようと思ったけど誰も捕まらなかったので・・・)歩いていると高校時代に歩道橋からふと覗けた大きな夕日を思い出しましたが、あれも思えば秋の夕日だったように思います。やはり秋の夕日は美しいですね。

秋は一際夕日が大きく見える季節だと科学的にも言われているらしいですが、やはりそれだけではないでしょう。散り始める紅葉はもちろんのこと、秋の日はつるべ落としと言いますが気づいたら日が沈み夜になっているそんな中での夕日の儚さ、冬の張りつめたそして澄んだ空気がふと顔を出し広大な夜空のなかでポツンと一人佇む寂寥感とそれゆえあたたかさへの敏感さが増す日々の生活、そんなものすべてが秋の夕暮れの美しさを際立たせているような気がします。

「秋は夕暮れ」なだけでなく「夕暮れは秋」でもありますね。美しい秋の夕暮れに思いを馳せられたのだから友人が捕まらなくてかえって良かったかもしれません笑

 

さて、秋の夕暮れといえば言わずとしれた三夕の歌があります。

 

・さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ  寂蓮法師

 

・こころなき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行法師

 

・見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ 藤原定家

 

 

秋といえば定番のテーマは紅葉、落ち葉、すすき、月ですかね、古今和歌集の「秋上・下」に掲載されている歌も大半はこれらのテーマです。一方、意外なことに秋の夕暮れ、夕日について詠った歌は一つもないようでした。(自社調べ)

それらの古典的な秋に"ある"美しさを詠った歌に対し、三夕の歌は秋の"なさ"とその世界に対峙する自身が抱く寂しさのようなものが詠われています。(「さびしさは」はちょっと逸れるような気がしますが秋の景色の本質は寂しさという自身の内面性にあるという主題自体は同一のように思います。)「こころなき」と「みわたせば」は思い浮かべた鴫や花、紅葉が忽然と消える。そんなギャップで際立つ荒涼感が美しく身にしみますね。

鴨長明も無名抄でこんなふうに語ったとか。

「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。これを、心なき者は、さらにいみじと思はず、ただ眼に見ゆる花・紅葉をぞめではべる。」

 

やはり秋の夕暮れの美しさはどことない寂しさがあってのもの。深く身に染み入る寒さや深く身に染み入るクリスマス一色の町並みがおとずれ段々と心も体も寂しい季節がやってきますね。今年最後の心地よい寂しさを噛み締めながら今回はこの辺で。

 

 

すっかり日が暮れて気温も下がってきたようです。体調には気を付けてくださいね。

 

はじめまして

はじめまして、しんと申します。

経済学と数学と短歌とアニメが好きな大学生です。特に趣味はないので上の四つと雑記が主な内容になるかなと思います。調べ物と思考の整理の機会に、思考の整理とアウトプットの機会に気が向いたら何か書いていこうかなと思います。